「話しにならない」としているのは、解読力ではなく「長い文章を理由に、内容を解読しようとしないこと(=排除しようとしていること)」。アク禁の際問題となることを考慮するのがアク禁案を出す者の姿勢でしょう。内容を理解しようとしていれば、文章の長さなど問題とはせず、それなりの理解を示せるはずです。“慎重さ”こそに同意されているまっくすさんであれば、「話しにならない(=接点が見出せない)」は理解出来るはずです。ですから、誤読される書き方に対しては反省すれど、内容を超えていないと言っているのです。また、まっくすさんの倫理から謝るべきとありますが、私の倫理に従い、謝ることよりは相手の発言に理解を示すこと又は相手との対話の意思表示をすることを、その代わりとしています。理由は、1、平謝りは簡単で真意が掴めないが、このやり方は容易ではないこと。2、突っ込んだ話し合いの際には誤解は付き物であり、それを気にするよりは内容に接点を見出したいから。(ちなみに、これが出来なければ、物別れし水に流す)再三私に指摘されていますが、段々と真意が何処にあるのかを理解出来なくなってきました。平謝りでことがすむのであればそうしますが、表面上謝ること(方便)はそれほど重要なことなのでしょうか?今回のやり取りでも、まっくすさんのネット上に於ける真摯な態度が覗えます。その姿勢は好感が持てるものですし、指摘したいことも分かります。しかし、私に対する指摘は、重箱の隅を突付いているようにも感じられます。(どのような回答を期待し、それが何に繋がるのかが見えない?)同じような論理で指摘すれば、まっくすさんが長い文章を書いた後に「長文失礼しました。」と何度か書いていますが、「謝るのであればしなければよいのでは?」とか、「指摘する前に私の質問に答えるのが筋である。」とか…。私はこのような指摘をまっくすさんにしませんが、指摘自体は正しいが取り上げることでもないように感じられるのです。どこまでを排他行為と捉えるのか?まっくすさんに、そんな質問もしたくなりました。≪蛇足≫まっくすさんの冒頭のお断りに関して。既に新たなスレッドも立っていますので、気にすることもないような…。棲み分けとはこのようなものなり…。◇ 02/12/31(火) 05:30 編集