あなたのいう形而上学的な配慮は無意味ではないか。会話の本質というのは相手に生の自分をさらけだすことによって自分の立場を優位にして相手を納得させることではなく、むしろ自分の意見を相手に越えられる事によって新しい認識がうまれ、そこで初めて論理が見える(見えなくとも両者に浸透する)ことにあるのではないか。だとすれば、極端な言葉を回避するようでは全く会話をしないということ。すなわち「言葉をかわし、ただ時間つぶしのリラックスタイム」と同じになってしまうのではないか。最近、掲示板の魅力が欠けてきたように感じるのはそういう事情があるのではないか。