私はなにかを言えば、「客観的根拠」を問われる。しかし何度も言うようにそんなものはない。なぜなら私自身自分を信じていないからだ。全体の状況が私を動かしている。そこから意識が生じる。それに対し、客観的根拠を求める人はそう思わない。彼らは自分の意見は自分自身が生んだものだと思っている。でもそれははっきり言って間違いだよ。例えば水を飲みたいと思ってコップに手を伸ばす。その意識より半秒前には、脳は水を飲む行動に向かって、すでに動き出している。水を飲みたいと思った根拠をどう説明できるというのだろうか。同様に、例えばハリケーンランが強いと私が言うのは、脳がそう思う方向に働くからである。ただそれだけのことである。そこにどう、客観的根拠が働いたかを私に聞くということは、私に自分を信じさせることを強制しているようなものである。客観的根拠を問う人の予想とはそんなものであって、無理やり自分を信じ込ませているにすぎない。しかし、そのことに気がつかないのは、それが前提になってしまっているからだ。前提をひっくり返す議論はどこの世界でも人気がない。自分の前提をひっくり返すと、いままでのオレは何をやってたんだという気になるのが怖いのだろう。その結果、「当たり前で自然なことに屁理屈をこねていちいち」みたいな文で返されるのだ。要は根拠付けが好きなのだからこれでは止まらない。あなたが幼稚だから。交友関係が薄いから。とまあ自分なりに考えた根拠を提示してくる。しかし世界は広い。客観的根拠なんてものがあれば皆同じ考えをするはずだし、そうでないのはそんなものないからである。つまり人の考えを決めるのは「全体の状況」である。その人が何を見て、何を体験してきたのか、に加え今の状況が考えを決めるのであって、決して自分自身が根拠をもって意見を為すのはおよそ不可能である。これが私が自分を信じないという理由である。◇ 06/08/19(土) 05:21 編集