昨日おもしろい記事を2つも読んだ。その記事から武豊について考察できる。というのはこれら記事に書かれていることはまるで武を説明しているようなものだから。まず武と他の騎手では何が違うのかということである。私はこれまで度胸が違うとか色々言ってきたが、もっと客観的に見ると、要するに経験値が違うということだ。異論あるまい。そしてその経験値の差がどれほど騎手の実力に関与するのかを考えてみると、それこそ騎手の実力イコール経験値の差そのものであったりするのではないか?と思わせる記事だったのである。その記事はある指揮者が自分の職業について語ったものであった。指揮者と騎手となんの関係があるのかと思われるかも知れないが、騎手は馬を操る指揮者である。これは関係がありそうだ。その指揮者は、ある偉大な指揮者の指揮についてこう説明している。「理屈を追っていくと理にかなっていない部分がたくさんある。それだのに音楽的な条件が整ってくると、それを超えて何かが降臨すると思うんだけど、その降臨する頻度が多いんだよね。」ききてが質問する。―本人にはその秘密がわかっていたと思いますか。指揮者はこう答える「絶対わかっていたと思うよ。音楽家っていろいろやるんだよ、好き勝手に。閃きとか行間の宇宙とかそういうものは何もない。ただそのときどきに判断を下すのが指揮者でこういうふうに行くと気持ちよくなるんだ、というのが分かるんだよ。絶対過去に経験があって、こういうやり方があった、自分でやったことがあるというのがちゃんとあるからできるんだ。なにもわからないところに、いきなり足つっこんでいかないよ。」これはまさに武豊の説明そのものではないかと思ってしまうのだった。もう一つの記事はイタリア人が時間にルーズなのは、最初から計画を進めて全体を構築するのではなく、最後の最後で上手くいけば御の字だという考え方からきているのだろうと書いている。これがまた武豊の説明に思えて仕方ない。また、この記事はこう書いている「想定内の完成形より、想定外の完成形のほうが、しばしば人に感動を与える。」これも何度武に見せ付けられたことか。ぐたぐた書いたが、この2つの記事は音楽評論でありながら武豊について雄弁に語っている。