今日は同僚と2人でウインズに行った。ウインズに着いたのが1時だった。東京8Rの芝を見ていると、まあなんと内がきれいなことか。当たり前のように内の馬が残っていた。だからヴィクトリーとサンツェッペリンとアサクサキングスは当然マークしなければならないのだが、馬券の対象となるのはヴィクトリーのみである。なぜならヴィクトリーがはやめに先頭をつぶしてくれると思っていたからだ。そこに差してくるのはフサイチホウオーというのがおおまかな予想だった。おおまかすぎる!まあ競馬を何年もやっててこんなありきたりな予想しかできないのだから、馬券も当たらなくて当然なのだ。そう、今日はウインズで隣の席におばちゃん2人がちょこんと座っていてその片方のおばちゃんがよく喋りかけてきた。人生の後半になると人はあれだけ哀愁感が漂うのかと感心する。人生の大先輩に耳を傾け、何を話しているのか分からないときもあったけれど、今の若い人にはない優しさがあった。私が見せた単勝ハズレ馬券を「これが馬連?」と聞いてきたときはびっくりした。彼女は馬券のシステムは勿論、競馬のいろはが全くといっていいほど分かってない。だからレースが終わっても馬券が当たったのかどうか分かっていない。つまり払い戻し機に馬券を突っ込むまで結果が分からないのである。そんな状況で私の立場としては彼女の馬券を見て、「それハズレですよ。」となんてとても言えない。でもさすがに何番の馬が何着かは分かるようで、問題は三連単と三連複、馬連と馬単、馬連と単勝の違いが分からないということだ。古き良き時代という言葉があるが、私は古き良き時代のウィーンが好きなのである。ここでまた音楽の話になるが、現在はとにかく交響曲を聴くときもであるが「解釈」という概念が重要視されている。これがベートーヴェンらしいとか、これがブルックナーの精神だとか、楽譜をいじくりまわして曲を立体的に浮かび上がらせようとする。しかし古き良き時代にはそんなものは必要でなかった。1950年代に録音したCDを聴いて私はいままで聴いてきた音楽がどれほど無機的で批判的なものであるかが分かる。いまや、ウィーンは観光地として発展しているがそのために、郷土性が失われ文化が平均化してしまっている。もとはといえば、音楽には人間性、つまり人間として生きるにあたり感じる全てのものを音楽は内包していた。もっといえば、人間をさらにより人間にするのが音楽であった。しかし今は違うのだと思う。人智を超えたとか、人間性の卓越だとか、宇宙の鼓動だとか、そんなものが評価される。僕たちはまるで人であることを拒んでいるかのように音楽を聴いている。となりに座っているおばちゃんを見てそんなことまで考えた。そして家に帰り、モーツァルトのクラリネット五重奏曲を聴いた。1951年のウラッハとウィーン・コンチェルト四重奏団の演奏だ。彼らは淡々と演奏する。人智を超えない、人間性を卓越しない、宇宙が鼓動しない、生きる喜びや悲しみがストレートに伝わってくる。当時の人の心のあたたかさが良く分かる。今回のダービーは牝馬が勝ったが、私は所詮牝馬と書いてしまった。ところでウオッカはタニノギムレットに本当に似てきたと思いませんか?まるっこい後ろ股とか腹のラインとかクビの形なんて、ルションはどこに行ったのかという感じです。タニノギムレットは故障したけど、その分彼女が見せてくれるんじゃないでしょうか。上位はサンデーの血が入ってませんね。私はもうサンデーの時代が終わっていると思っているので国産の馬がこれから活躍してくれると思っています。