1905、後に奇跡の年と言われるこの年にアインシュタインは特殊相対性理論を発表した。相対論については説明しない。しかし相対性の広義な原理はすでに19世紀発見されていたように思う。その人とは極限を明確に定義したコーシーである。ニュートンやライプニッツのような天才たちでさえ極限の概念については定義を回避してきた。コーシー(1789〜1857)の捉え方は「ニ者の対立」に特徴がある。相対的なものほど信頼に足り、定量化する上での明晰さを生み出す。アインシュタインの相対論もこの原理に基づいている。コーシーは原理を見つけていたのである。数学で当たり前のように使っている極限だが、その概念の発見は革命だったと思う。
んな,コーシーを引き合いに出さなくても(^^;解析学と物理学は以前は同様の地平に存在したものです。定義の話を持ち出せばすべてが繋がってしまうことは当然でしょう。極限の定理なんて,解析学を再度体系化する上では避けては通れない道ですよ。それに,そんな大仰な話を持ち出さなくても,物理学の中だけに話を限定しても,アインシュタインの特殊相対性理論は時代の流れから飛躍したものではないと言われています。ちょっと気になったので指摘させて頂きました。
飛躍してなかったんですか?ということは私のような考え(相対的なものほど信頼に足り、定量化する上での明晰さを生み出す。)を意識した人間がたくさんいたのだろうか・・・むしろ、そんなもの当たり前とされた世だったのだろうか。
相対的なもの〜のくだりがどういうことを意味しているのか,イマイチ私には理解できないので,あなたの説にはコメントしかねます。しかし,相対性理論は生み出されるべくして生み出された理論であると,科学史では一般に言われているようです。世間にはあまり浸透していない見解ですが(^^;ものの本で読んだ知識ですけどね。19世紀末,光の正体が電磁波であることは,既にマクスウェル方程式によって分かっていました。当時は,光速度が一定であるという実験事実をエーテル仮説によって説明する試みがなされていました。数理物理学者のローレンツも,1895年にエーテルに関する仮説を立てています。当時の実験技術では,この仮説に対する決定的な矛盾は発見されませんでした。しかしローレンツは1904年,自説に変更を加え,マクスウェル方程式の形を変えない変換式,「ローレンツ変換式」を導いています。あくまで彼は,「(実際はそうでないのに)光の速度が一定であると観測される理由を追及する」という態度をとっている点がポイントです。ところが,アインシュタインは,・光の速度が光源に因らず一定。・物理現象はどの慣性系から見ても同じ。という二つの仮定を認めれば,ローレンツ変換式を導くことが出来る,ということに気付くのです。実は,数学的には,アインシュタインの理論とローレンツの理論は完全に一致するそうです。両者の差は,エーテルが存在するか,しないかという態度の違いのみです。特殊相対性理論は突然変異的に生まれたものではないと言われる背景には,こんな理由があるらしいです。
返信ありがとうございました。ローレンツやエーテル(エーテルって何?)については調べておきます。私が言いたかったのは「相対的なものほど信頼に足り、定量化する上での明晰さを生み出す。」という、一歩進んだ視野が革命的だということです。コーシーの収束条件は「任意の正数εが与えられたとき、そのεに対応して、一つの番号Nが、n>Nならば|An−α|<εが成立するように定められる。」 (Anは基本数列)これは二者の対話によって「のみ」成り立つ定義ですから。
エーテルは、電磁波の媒質として仮定された物質ですね。高校の教科書にも載っていたと思いますよ。コーシーの収束条件ぐらいは知っています。収束に関して感覚を差し挟まない定義を与えたという意味で、十分革命的なのはわかります。ただ、彼の着想が、あなたの言うような理由から生まれたものなのかはわかりません。昔、コーシーに関する記事を読んだことはあるけど、忘れちゃったなぁ・・・
残念ながら数研の教科書には載ってませんでした。エーテル説は否定されてるのがご存知の通り。で、私が分からないのはエーテル説(宇宙はエーテルの海)が否定されているのか、それともエーテル自体が「超」的なものなのかということです。仮定となれば後者のことなんですね。教科書は年年中身がけずられていくようです。>>ただ、彼の着想が、あなたの言うような理由から生まれたものなのかはわかりません。着想自体が定義になっているとは思いませんか?私はそう思ってひかれたのですが。要するに、私が言う定義(フライヤーさんから言えば理由)が定性的アプローチで、コーシーの定義は定量的アプローチ。2つを結んでいるのは必要十分条件だということです。編集室:lowflyerってトンボという意味だったかな。それはドラゴンフライヤーだったかな。◇ 04/03/15(月) 16:08 編集
>>エーテル自体が「超」的なものなのかローレンツの仮説は、光速度一定という実験結果を説明するために様々な仮定をしているらしいです。また、ローレンツ変換式を解釈するためにも様々な仮定をおいているようです。ところが、光速度一定を原理とすれば、他に特に何も仮定せずに同様のことが説明できちゃう。それどころか、さらに推し進めると、もっとたくさんのことが説明できちゃう。その意味で、エーテル仮説は破棄されたと言えるんじゃないかなぁ。私も詳しいいきさつは知りませんので、ご自分でお調べください。というか、これ以上の内容を話するためには相対性理論の本格的な勉強が必要な気がします。>>着想自体が定義になっているとは思いませんか?むしろ、それまで感覚的なレベルにとどまっていた「収束」なり「極限」なりの概念を、数学の言葉に翻訳したのだという気がします。それまでの解析学は結構いい加減な議論がまかり通っていて、その為に綻びが至る所で表面化していたとか。解析学の体系を早急に再編する必要があったんじゃないでしょうかね。なんか昔勉強した気がするけど、忘れちゃいました。また、詳しい記述が載っている本を見つけたらお知らせ致します。もしかすると記憶違いで、全くデタラメなことを言っている可能性もあるので、悪しからず(^^;lowflyerはサラブレッド黎明期の名種牡馬Highflyerのもじりです。特に深い意味はありません。
×極限の定理○極限の定義ですね。一体何をやっているのだ、私・・・念のため言っておきますが、コーシーを蔑む意図は全くありません。彼の定義や、そこから導き出された定理は非常に重要です。